枕草子の周辺

wikipediaなどよりの憶測

道隆の死後、疎遠になっていく公達が多い中で、
(まあ、陸奥にとばされちゃった実方サマは仕方ないが。)
なぜかその後に出番の多い、行成という人がいる。
単にそういう役職だったのかもしれない。
一条帝の四納言と呼ばれる能吏の一人であり、
三蹟に数えられる日本の書道史に残る書家でもある。
彼の書いたものは皆が先を争って欲しがった様子が
枕草子に描かれており、
wikipediaにも道長に本を借りたところ、
原本をくれてやるから写本をよこせ、と
そんな逸話が残っている他
都の門の扁額を直したりもしたそうだ。
(当時の感覚でおそらく歴史に残る一大事業かと。)
百人一首に選ばれた清少納言の歌は彼とのやりとりである。

世をこめて鳥のそら音ははかるとも世に逢坂の関は許さじ
逢坂は人越えやすき関なれば鳥鳴かぬにも開けて待つとか

これにいったいどう返事をしろと・・・
結局返事できなかったー、言い負けたーくやしー、
というようなことが書いてある。

行成は定子の遺児敦康親王の後見となり
家司として仕える一方、
一条帝に、道長に逆らわんほうがええよ、と
なだめる役割も果たしており、
道長サイド、定子サイド双方から信頼されていたらしい。
東宮に彰子の子を立てるよう説得するなど
歴史上重い役割を果たしたと言えよう。
その本心は後ろ盾のない敦康親王を政争から守るためと
言われているが、おそらく帝にもそのように言って
納得させたのではなかろうかと思ったりするが、
公式の文書に残る理由としては、
敦康親王が、在原業平と伊勢斎宮の不義の子の血を
引いていることが挙げられているらしい。
これが彼の娘の行末に影響したという余談もある。

一条帝薨去にそばに控え、その辞世を、
定子に宛てたものと解釈するなど
定子よりの様子が窺える。
中関白家と道長の間で綱渡りする同士として
定子周辺にまつわることを、隔てなく語り合える相手
だったのかなー・・・
その一方、道長からも嫡子頼道の後見を
依頼されていたりする行成でありましたが、
道長と同日に死亡したのでありました。