一条天皇の周辺

wikipediaなど年表からの憶測

辞世は
露の身の草の宿りに君をおきて塵を出でぬることをこそ思へ
東宮母である彰子に宛てたものとも
故人である恋女房定子に宛てたものとも言われている。
(言葉通りに取れば、「君」は生きている人ではなかろうか。)
彰子は道長の娘であり、一条帝は道長
よくは思っていなかった。
定子の立場を弱くした、との思いもあったのだろう。
長徳の変は、どうも定子の兄弟がおバカだったせいのようだが・・・
それを受けて、定子は落飾し、強引に後宮に連れ戻すも、
世間の風あたりは強く、実家や職の御曹司を転々とし、
天皇中宮である定子のもとへ通うのも
人目をしのばねばならぬという有様だった。
枕草子は、そんな中で書かれたもので、
定子の素晴らしさを喧伝し
世間へのはかない抵抗と見ることもできるだろう。
999年、定子の皇子出産の翌年、
彰子が中宮に。
中宮というのは、基本、一の人(摂政、関白、太政大臣など)の娘で
皇子を産んだ女御から立てるのだが
(とはいえ定子も中宮になった時点で皇子を産んでいないが)
彰子はまだ子をなしておらず、処女だった可能性すらあるよなー・・・
988年生まれというからこのとき12才か。
父親の道長が気に食わん当てつけ、、がなくても
幼い。
当時の結婚年齢としてはやや早い程度でしかないが、
20才の青年、しかも妻をあまた持つ男の
食指が動くとは思えない。
1000年、定子没。
その妹が遺児の母代わりとして入内。
帝は彼女のもとに足しげく通うようになる。
最初は子供の顔を見、また定子の思い出を語り合う
といった様子であったかもしれないが、
当然ちゃあ当然、なるようになったが
彼女も1002年に妊娠中に死亡。
その後、帝の寵愛が誰に移ったか。
彰子は定子の子である敦康親王を引き取って養育、
一条天皇が折れたのか、彰子が年頃になったからか、
とにもかくにも、1008年、皇子を儲ける。
それでも彰子は敦康親王を可愛がったそうで、
東宮に推したが、道長の反対でならなかった。
帝に決意を促したのは、行成と言われる。