思い出したりする

私は一人っ子で初孫だったから
ずいぶん溺愛されたのだと思う。
小学校のときは、どうにもうまく合わなくて
いじめられていた。
まあ、たいしてなにをされたというほどのことは
されていない。
でもやっぱり辛くて、学校から帰ると
母の膝で泣いていた。
母は、祖父母や彼女の夫に
私の抱えるトラブルを知られることを
ひどく嫌った。
なので、学校でうまく行かないことを
知っているのは彼女だけだった。
そのころの京都府共産党政権の最後で、
公立の学校などは、共産党思想より他は
何も教えないくらいにひどいことになっていた。
一応、転勤の可能性があったから、
他府県に転校になって落ちこぼれるとかわいそうだというので
書店で買ってきた問題集などを二人で解いていた。
特に、私立進学校を受験しようだとか、
将来有名大学に入れたいとか考えていたわけはない。
東京の祖父母のところから、私立に通う選択肢もあったと
今になっては思わなくもない。
中学に行っても学校での状況は
さして変わらなかったのだから。
学校でうまく行っていないことに関しては、
母はなんの対処もしようとはしなかった。
アドバイスをくれるわけでもなかった。
そもそも彼女から建設的なアドバイス
受けたことがあるかどうか、疑問ですらある。
とにもかくにも、まず否定する人だった。
どうしなさいということは言わなかったが、
気に入らないことをするとひどく不機嫌になった。
それはともかく、現状の学校でのことは
どうしようともしなかった。
彼女は、土地の人間も学校の教員も馬鹿にしていたようで
彼らが何をしようとたいしたことではないと
思っていたように思える。
今から見るとそう思うというだけのことで、
子供だった自分はただ泣いていただけだった。
そして、人格形成にも母子関係にも深い傷を残した。