かな文学

イタリア語は、ダンテが作ったと言われる。
それまでは、アルファベットというのは、
文字というのは、ラテン語を綴るためにあるものであり、
イタリア各地方言を文章にするという発想はなかった。
トスカーナ方言だそうな。

仮名文学も似たところがあるのじゃないかと思う。
かなができるまでの文章は全て漢文だったはずだ。
漢字の当て字で和歌を詠むことはあったようだけれど、
公文書はずっと遅く少なくとも江戸時代が終わるまでは
漢文で書かれるものであったし、
平安時代の貴族男性による日記は(土佐日記を例外として)
漢文である。
対してかなは、やまと言葉を書くための新しい文字であり、
かなで文章を書くと言うのが新しい試みであった時代があった。
土佐日記や、伊勢物語、その他古い物語が
そういう新しい試みだったのではないかと思う。
なにが言いたいかというと、つまり
それは口語、言文一致体だったのではないか、ということ。
徒然草の時代になってくると、平安朝の文章は
すでに古いものになり、「擬古文」を用いたりするのですが、
枕草子源氏物語の時代は、
あれが口語だったんじゃないかと思います。
そして一人称は「まろ」。